Shepherdmanとは
Shepherdman(羊飼いを意味するshepherdに由来する、三上真潤の造語)は、学ぶ人と向き合うときの立ち位置を表す言葉です。導くべき時には前に立ち、相手が歩く時には横に立ち、必要がなくなれば後ろへ下がる。Shepherdman Academyは、三上真潤から学びたいと願う人のための場です。ここでは、この立ち位置で学ぶ人と向き合います。
Practice ではなく Praxis
日本語には、練習と稽古という、似ているようで違う言葉があります。練習は上達のための手段で、上手くなれば終わりが来るものです。稽古はそうではなく、生涯続けていく営みで、そこに終わりの線は引かれていません。Shepherdman Academy が Praxis と呼んでいるのは、この稽古のことです。
稽古は、自分のものではない型をなぞることから始まります。最初はぎこちなく、うまくなぞれません。それでも続けるうちに、なぞっていたはずの型が、いつのまにか自分のやり方に変わっていきます。さらに続けると、それは技術と呼べるものですらなくなり、ただの身のこなしになります。
誰かの型(Kata) → 自分の稽古(Praxis) → 自分の道(Michi)
型はかたちそのもの。Praxis は、それを毎日繰り返すことです。そして道とは、長く稽古を重ねた末に残るもの——もはや稽古そのものには見えなくなったものを指します。
五つの領域
ここでの稽古は、五つの領域に分かれます。順番に登っていく段位ではなく、並行して進んでいくものです。
- Self(自分)
- 自分を整えること。身体、心、習慣、そして自分の状態を正直に見ること。
- Kata(型)
- かたち。礼と、反復と、同じようにもう一度やるという規律。
- Praxis(稽古)
- 日々の実践。やること、動くこと、そこから出てくる判断。
- Others(他者)
- 助ける、聴く、導く、守る。自分のところで止まる稽古は、まだ途中です。
- Michi(道)
- 自分の道。何のために在るのか、それが世の中とどう出会うのか。
自分だけが良くなっていく成長は、まだ完成した形ではありません。Others が最後の付け足しではないのは、そのためです。
「考えるな」と言われると、考えてしまう
座る瞑想の難しさは、ここにあります。考えるのをやめなさいという指示そのものが、また一つの考えになってしまうのです。何もしていない時ほど、人の頭はよく働きます。
だから、手を動かします。手に一つだけ仕事を与えると、頭はあれこれ考えることをやめ、意識は手の動きのほうへ向いていきます。
その手に筆を持たせるのが、己書(Brush Praxis)です。
体系
同じ名前で語られがちですが、この二つは別のものです。
- 瞑想
- 目的を持たずに、いま在るものを見ること。
- 観想(かんそう)
- 方向を持った稽古。
どちらも基礎は同じで、しかも地味なものです。呼吸法と、数息観(すそくかん)。息をして、数えて、逸れたことに気づいて、戻る。逸れて戻ることは稽古の失敗ではなく、それ自体が稽古そのものです。
基礎の先には、より深い稽古があります。これは申し込んで受けるものではなく、教える側と学ぶ側が互いを知ったうえで、双方が始めると決めたときにだけ始まります。その入口は、いつも基礎の稽古です。
三上 真潤
日本だけでなく、かつてはカリフォルニア(サンフランシスコ・ベイエリア)でも、稽古の場を開いてきました。
米国での歩みは、ワシントン州立大学(心理学部)に始まります。ハーバード大学ケネディスクールの非営利団体経営コースも修了しました。
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2008
2008年、米国ナスダック パシフィック・ネットの日本総代表に就任しました。その後、米国・加州の法律事務所で日本総代表を務めています。
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2015
英語では2015年にTESOL教師資格を取得し、米国の大学(UC Davis、University of San Francisco など)で教壇に立ち、法律分野や国際的な場でも通訳を務めてきました。
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2016
2016年には、米国で臨床宗教師として登録しました。書の稽古では、一般社団法人日本己書道場の第51期道場師範を務めています。
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2021
2021年、伝法大阿闍梨の位を受けています。
真言宗の僧侶で、NPO法人ハートスポット 理事長、AwesomeSea合同会社 代表社員も務めています。
宗教と経営、法務と教育。この横断が、いまの稽古の土台になっています。
MIKAMI ENGLISH ACADEMYは、その英語の実務から生まれました。
開催の日程は、毘沙門己書道場の公式LINEでお知らせしています。ご相談はお問い合わせフォームから。